神田五軒町の歴史

自治会沿革

※昭和2年11月神田公論社 発行「神田区史」より
 以下は設立当時の内容です。
【設 立】(前身)明治38年、現町会組織 大正10年4月
【区 域】五軒町全域
【事 業】1.町内の衛生並びに交通に関すること
     2.災害を予防するため自警法を講ずること
     3.大祭祝日鎮守祭等に関しては相当の方法を以って祝意を表すること
     4.会員または家族の入営除隊若しくは葬式に関しては相当の方法により 慶弔の意を表すること 但しこの場合は本人より最寄り役員へ申出ること
     5.官公署の論達はなるべく会員一般に周知せしむるよう相当の方法を執ること
     6.時々講演会または談話会を開催し会員の智識を増進すること
     7.その他幹事会において必要を認めたること
【役 員】会長 和久井彦三郎、副会長 坂本喜一 木津伊三郎、会計 柏豊次郎 金子東一
     評議員 40名
【経 費】年額5,000円
【沿 革】明治38年頃 五軒町共正会を組織し、大正元年これを大正会と改称し、専ら会員間の親睦を図り、事業としては単に夜警をなすに過ぎなかった。
大正10年に至りこれを解散し新たに五軒町町会を組織し順次会則を確立するとともに役員を公選にし益々発展して今日に及ぶ。

江戸時代

江戸時代、この界隈(かいわい)には、
・上総久留里(かずさくるり)藩黒田家上屋敷(かみやしき)
・下野黒羽(しもつけくろばね)藩大関(おおぜき)家上屋敷
・安房勝山(あわかつやま)藩酒井家上屋敷
・播磨林田(はりまはやしだ)藩建部(たてべ)家上屋敷
・信濃上田(しなのうえだ)藩松平(まつだいら)家下屋敷(しもやしき)
と、五つの大名屋敷が並んでいました。
「五軒町」(ごけんちょう)と呼ばれていたのはそのためです。
※千代田区ホームページより

明治時代

明治時代の神田五軒町
明治時代の神田五軒町 (© goo地図)

明治維新のとき、政府によってこれらの屋敷は召し上げられ、桑や茶の植え付け地となりました。
明治五年(1872年)、この地は神田五軒町(かんだごけんちょう)と名付けられ、人家が立ち並ぶようになります。
明治三十年代には、てんぷらの名店や寄席(よせ)などができ、町はおおいに賑わい(にぎわい)ました。

昭和22年

昭和22年の神田五軒町
昭和22年の神田五軒町 (© goo地図)

明治四十四年(1911年)、町名は神田が外されいったん五軒町となりましたが、昭和二十二年(1947年)に神田区と麹町(こうじまち)区が合併して千代田区になると、ふたたび神田五軒町に戻ります。

昭和38年

昭和38年の神田五軒町
昭和38年の神田五軒町 (© goo地図)

そして、昭和三十九年(1964年)、住居表示の実施にともなって外神田六丁目(そとかんだろくちょうめ)となりました。
当時は中央通りに都電が走り、末広町の交差点には、「末広町」のちに「外神田5丁目」の停留所がありました。
また町内は、木造の建物が殆どでしたが、アーツ千代田3331の場所に鉄筋コンクリート造3階建ての千代田区立練成中学校の校舎(1978年新校舎竣工)があり、3学年で約1,000名の生徒が通っていました。

住居表示の変更
当時の住居表示変更の様子
 
現在の住居表示版
現在の住居表示版
当時の神田祭の様子
 
現在の風景
現在の風景
当時の神田川(聖橋から昌平橋方面を望む)
現在の風景
現在の風景

現在

令和4年の神田五軒町
現在の神田五軒町 (© goo地図)

千代田区のホームページで外神田6丁目(神田五軒町と神田同朋町の一部)の世帯数・人口(住民基本台帳)を調べると少しずつ増加しております。
新たに転入された方々にも神田五軒町の魅力を感じていただけるような町会活動を今後も引き続き進めて参ります。

年月世帯数人口男性女性
2013年2月394655354311
2017年2月461775411344
2022年2月551868448420
千代田区ホームページより